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暮らしのこと

らる畑40周年記念インタビュー記事後半「伝え続ける思い」ー娘たちとともに駆け抜けた40年

2026/10/28

前回の記事では、らる畑創業者・早知子さんが「私、やるわ!」と有機野菜の流通に参加することになった原点をお伝えしました。後半は、その決意の後、二人の娘を育てながら有機野菜を売り歩いた日々の苦労、バトンを繋ぐ現在に至るまでをお伝えします。

一軒一軒、めげずにインターホンを押す日々。

1986年、早知子さんは移動販売から「らる畑」をスタートさせた。車にスピーカーをつけ、テーマソングの「いい日旅立ち」(のちに「ネバーエンディングストーリー」のテーマ)を流しながら、「有機栽培の野菜を売りに来ています!農薬も化学肥料も使わない有機野菜です!」と呼びかけて住宅街を回った。

免許取りたての冬道の運転は死ぬ思い。北大18条駅の近くで、曜日を決めて野菜を広げて売ったこともあった。住宅街のインターホンを、一軒一軒押して回った。

「一軒一軒ピンポンするのは、本当に勇気がいる。めげない、と思って頑張っていた。声を少し高く保ってね。」

それでも、出てきてくれるのは十軒に一軒ほど。まだ「有機野菜」という言葉自体、世の中にほとんど知られていない時代だった。虫食いや形の悪さを、一つひとつお客さんに説明する。採れすぎたトマトを、なんとかケース単位で買ってもらう。

無我夢中の日々だった。

雨の日も雪の日も走り抜けた移動販売は2023年に終了

早知子さんを支えていたモチベーションは、有機農業への熱い思いだけではなかった。

「絶対売ってやるぞというモチベーションは、子どもを養っていかなきゃという気持ちも大きかった。『今日売らなければ、明日がない』」

理念と現実は、いつも隣り合わせだった。子育てとの両立を支えたのは、当時取り組んでいた「共同保育」という親たちが順番に子どもたちを見る仕組みだった。祖父母が近くにいない母子家庭の環境でも、地域の大人たちに囲まれて娘たちは育っていった。

「私からも『周りには素敵な大人がいっぱいいるんだから、困ったら誰にでも相談しなさい』と言っていました。」

チェルノブイリ原発事故が地域のお母さんを動かした。

1986年、チェルノブイリ原発事故が起きた。放射能汚染や食の安全への不安が、社会全体に一気に広がる。このときその夏にらる畑を始めた早知子さんを呼んだのが、「生活クラブ」を中心とした地域のお母さんたちだった。

「こんなときこそ、らる畑が扱っているようなものを食べなくちゃいけないのよ、早知子さん、と言って、お客さんのところへ呼んでくれたんです。」

こののち、3年半の移動販売がようやく軌道に乗り、仲間に勧められて、早知子さんは店舗を持つことを決意する。

創業当時の店内の様子

場所探しが難航する中、平成元年、現店舗のテナントに出会い強く惹かれた。担保も何もない身でお金を借りようとしても、最初は断られた。今では考えられないことだが、公務員とお医者さんの常連客が連帯保証人になってくれて、ようやく借りることができた。内装は、知り合いに手伝ってもらいながら自分たちで作り上げた。

移動販売と違い、店ではお客さんを待たねばならない。何年も店舗の赤字が続く中、忘れられないのはご近所の和菓子屋さんが「まずは三年辛抱するんだよ」と言ってくれた言葉だった。自分たちだけの力ではない。周りの人のあたたかさやお客さんの心意気に支えられた日々だった。

ひとつずつ店舗に商品が増えていく喜び

がむしゃらな商売の日々の中でも、早知子さんが手放さなかったものがある。それが、商品への徹底したこだわりだ。

ポラン広場北海道の仲間と共に有機大豆を手に、消泡剤を使わない豆腐を作ってくれる職人を探し歩いた。原料を持って製造メーカーを訪ね、「化学合成添加物を一切使わずに作ってほしい」と頼み込んで回った。納豆のパッケージは、早知子さん自らがデザインしたオリジナル商品だ。

早知子さんのデザインした商品パッケージ(※豆腐は現在廃版となっている。)

利幅の少ない商売で、食品の利幅はせいぜい価格の3割、支払いに追われる日々だった。それでも、生産者が丹精込めて作ったものを、ただの商品として右から左へ流すことだけはしたくなかった。

らる畑の棚に並ぶ一つひとつの商品には、そうやって「これだけは譲れない」と早知子さんが探し歩いた背景がある。子育てをしながら、生活と理想の両方を支えるために、一軒ずつ、一つずつ、積み重ねてきたものだ。

悲しかった、ポラン広場の解散

すべてが順調だったわけではない。早知子さんが40年の中で悲しかったと語るのが、有機流通のネットワークであった「ポラン広場」の解散だ。意見や立場の違いから、長年支え合ってきたネットワークは終わりを迎えた。

「その時はすごくむなしかったです。仲間同士、同じ思いは持っているはずなのに、どこか意見が違ってくるところがあった。」

相談先、頼り先がなくなった寂しさがあったという。「一つの時代が終わった。」という思い。それでも「ポラン広場」という緩やかなネットワークが築いた礎は、らる畑の理念の中に残っている。

生産・製造者のフィールドに足を運び続ける

商品を仕入れるだけではない。生産現場や加工現場に足を運び、空気を吸い、その人なりの話を聞く。それを自分の力にして、お客さんに伝える。それこそが、流通の役目だと早知子さんは考えてきた。

自転車操業の自営業を続ける中、早知子さんは、子どもたちに店を継いでほしいと思ったことは一度もなかったというが、高校卒業後にアルバイトに入った長女のまほろさんは、そのまま長らく「らる畑」の仕事に関わることになる。

まほろさんは働くうちに、全国の生産者やネットワークの仲間たちとつながっていった。そこで受け継がれていったのが、早知子さんが大切にしてきた思いだった。

畑を見学し、農家さんの話を聞く様子

「ただ売ってお金を得るだけじゃない。なんでその農業や加工が継承されてきているか、その話をちゃんとお客さんに伝える。ここにあるものはこういうものですよ、大事に食べてくださいね、美味しいと思ってくださいね、というふうに。」

20代から早知子さんのサポートをしながら現場に立ち続けたまほろさんが、代表としてバトンを受け取ったのは2022年のことだった。できるだけ生産現場を訪ね、伝えるという志は今もまほろさんに引き継がれている。

40周年を迎えた今、思うこと

生産者との取引先も、この40年で少しずつ変わってきた。早知子さん自身が会ったことのない生産者ともまほろさんが取引を始め、取引が増えている。それでも、どの商品も変わらず美味しい。2016年には、次女のみづほさんもお弁当部門の立ち上げに加わり、シェフとして「らるごはん」を作り続けている。

「ここまでやれてきて、良しとしていいんじゃないか」

早知子さんは今、週に何日か店を手伝いながら、経理や商品管理などでらる畑を支えている。何も言わなくても、スタッフたちがぱっぱっと動いてくれる。お客さんも、らる畑を大事に思ってくれる人ばかりだ。

早知子さんが意を決して「私、やるわ!」と手を挙げてから40年。振り返ればたくさんの出会いに支えられ、助けられてきた。今、らる畑を動かしているのは、その意志を受け継いだ娘たちと熟練スタッフたちだ。現場に足を運び、生産者の話を聞き、それをお客さんに伝える——早知子さんが大切にしてきた軸は、形を変えながらも、今の店にそのまま息づいている。

40年前と変わらず、らる畑の棚に並ぶ一つひとつの商品には、らる畑のスタッフが現場に足を運び、話を聞いてきた背景がある。これからも、その姿勢を信じて店に足を運んでもらえたら嬉しい。

本記事は、らる畑創業者・橋本早知子さんへのインタビューをもとに構成しています。(前半・後半シリーズ・完)